昨日、ふらりと守谷城址へ行ってみました。
高井城址と同様にここにも全然人がいなくて、静かな所でした。新緑が綺麗だったな~。
城址の近くには未開発の土地(昔、沼地だったのかな?)が広がっていたりします。
もし、僕が大金持ちならこのあたりの土地をまとめて買って、
城址の高台に広大な別荘でも建てるんだけどな~、な~んて空想してみました。
住み心地、よさそうです、このあたり。
もっとも原発事故の影響で放射線量は高めのようですが・・・。
守谷城址は「将門の城」と呼ばれていますけど、これは相当に怪しくて、
この城址は将門とは関係ないのじゃないかなぁ? もっと後の時代の城址のようです。
鎌倉時代の初期(鎌倉時代がいつから始まるのか議論のあるところのようですが)
千葉常胤(つねたね)の次男の師常(もろつね)という人が相馬氏を名のって、
幕府から地頭の権限を与えられ、このあたりの土地を直接支配していたようです。
史料によると、相馬胤広が相馬守谷因幡守(そうまもりやいなばのかみ)と称して
守谷に城をもっていたことが『足利高基書状』によって確認できるそうです。
その後、ま、いろいろとあったようですが、天正18年(1590)に徳川家康の家臣
菅沼(土岐)定義の息子の頼行が守谷城主(一万石)になりますが、
寛永5年(1628)に出羽上山(山形県)へ移封された後は、
事実上守谷城は廃城となりました。
江戸時代初期、守谷は(一万石とはいえ)城下町だったんですね。
写真は、1枚目は守谷城址の外観、2枚目は城址へ登る道(見下ろす写真ですが)、
3、4枚目は城郭の建っていたのだろうと思われる城址高台の平地、
5枚目は城址で撮った新緑の木々、6枚目は城址から見た付近の未開発の土地です。
音楽はまたモンキーズで Shades of gray.
http://www.youtube.com/watch?v=vF9T4OpGNQY
子供だった頃は正しいことと間違ったこと、強さと弱さ、真実と嘘、賢さと愚かさ、
誰を愛し、誰を嫌うのか、そういったことの区別は簡単のことだったし、
立ち上がって戦うべき時もよく知っていた(つもり)だったけれど、
この頃は昼と夜、暗さと明るさ、黒と白の区別もおぼつかなくて
ただ灰色の影にかすんでしまっているという内容の歌詞ですけど、
そういった感じ、僕にも分かるような気がする昨今だったりします。