Hatibei's music blog

以前は写真ブログでしたが、最近はもっぱら音楽の話題です。

古びた六地蔵

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古びた六地蔵をみつけたので写真を撮ってきました。
それぞれのお地蔵様のお顔が素朴で好感がもてました。
下の写真、もげた首を後からくっつけたようにも見えます。

と、これだけではナンですので、戯言(たわごと)を・・・。

母方の祖母は僕が生まれる前に亡くなり、祖父の姉を「おばあちゃん」と呼んでいた。
そのおばあちゃんも僕が小学生になるかならないかの頃に亡くなった。
まだ幼かった僕は母に連れられ、おばあちゃんの葬儀に参列した。
おばあちゃんの死に顔を見た時、生まれて初めて人の死というものを実感したような気がする。
幼い僕にとって「死」はただ気味悪いものでしかなかった。
亡くなった人を悼む気持などほとんどなく、ただただ「死」が不気味に感じられたものだ。

小学生の高学年の頃、人は死んでしまうのに何故生きるのか?
とふと疑問に感じたことがあった。その答えは未だにみつからない。
それどころか歳を重ねるとともにその「問い」がいっそう頭をよぎるようになったように思う。
仮に地位や資産やあれこれのモノを築いたとしても、死んでしまえばそれまでのこと。
努力して何かを得ることにどんな意味があるのか?
様々な本にはそれなりの答えが用意されていて、もっともらしいことが書かれてはいるが、
僕にとってそれらは全く「答え」になっていなかった。
自己実現」がどうのこうのと書かれている本を読んだ時には思わず笑ってしまったものだ。
本を読みながら、この本の書き手はバカじゃないのか? と思いながら・・・。

葉隠』に有名な「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」というのがあるけれど、
死の先取りともいえそうなこの一節は面白い。
仏教にしても、煩悩を絶つといった考え方は、
生きることが煩悩そのものだと解釈すれば、死の先取りのようにも思えて面白い。
自我を捨て、欲望を捨て、まるで死んだように生きる。
あるいは、何かの価値のために己を捨て去る。
そうした中に生きる意味を見出すといった一見逆説的にも見えるような生き方の中に
生きる価値を発見できるかもしれないと。
いや、死んだように生きるぐらいなら、いっそ生まれてこない方がよかったのではないか?

なーんにも考えないで、ボーッとそのばしのぎで生きて死んでゆく。それが一番なのかも。
所詮、生きるなんてそんなもの。
とすれば、人も犬もネコもネズミもゴキブリも大差はないということか・・・。