一昨日、ふらりとあけぼの山公園へ行ってみました。
春はチューリップ、夏は向日葵、秋はコスモスが満開になる風車前の花壇ですが、
初冬はどこか殺風景な印象です。
風車と並んでたつ木々(メタセコイア?)は緑色だった葉がすっかりが褐色に変色していました。
この木、年明けにはすっかり葉を落とし、初夏にまた新緑の葉を身にまといます。
公園の正面玄関横花壇の皇帝ダリアは見頃を少し過ぎた感じでした。
と、これだけではナンですので・・・。
昨夜、読んでいた五木寛之氏の本に書かれていたんですが・・・
「デカルトが「我思う、ゆえに我あり」という卓抜なことばを吐く以前に、中世のヨーロッパの神学者として、とても大きな存在であった思想家トマス・アクィナスのことばを知ることになったからです。トマス・アクィナスは『神学大全』という著作で知られる大変高名な神学者ですが、彼はデカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉に先だって、「我あり、ゆえに我思う」という驚くべき言葉を発しており(後略)」
こりゃ、知らなかったな。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」というのは、とにかく何でもかんでもかたっぱしに疑ってみて(方法的懐疑?)それでも最終的に疑っている自分(そう思っている自分)は疑えない、といったことから出た言葉だと思いますが(ホントか?)トマス・アクィナスの「我あり、ゆえに我思う」の方は、自己の存在そのものははじめから全く疑おうとしなかったってことなのかな? デカルトさん、このトマス・アクィナスさんの言葉を知らなかったとは思えない訳で、トマス・アクィナスの言葉をひっくり返すことにどんな意味を込めたのだろう?
ま、そんなこと、どーでもいいといえば、どーどもいいような気もしますけどね。
「どーでもいいなら書くな!」
「はい」