Hatibei's music blog

以前は写真ブログでしたが、最近はもっぱら音楽の話題です。

雨の鼓動 

オーディオチェックによく使われる井筒香奈江さんの『雨の鼓動』という歌があって、ピアノだけの伴奏で歌が始まってそこにパーカッションが加わりベースが加わりフルートも加わってと、それぞれの楽器の音を聴くのに便利です。深く沈みこむ感じのベースの音色も悪くないです。
https://www.youtube.com/watch?v=rUY7sPK6BTY
ただこの歌、僕に詩心がないのか意味がよく解りません。わからないところがいいのかなぁ? それともわからないのは僕に詩心がないせいなのかなぁ? すべて雨のせいって、いったい何が雨のせいなのか? 何々のせいといえば、主人公が殺人を「太陽のせい」にしたカミュの『異邦人』という小説があったっけ、って関係ないか。ま、カミュなら今の御時世『ペスト』の方があっているかもしれませんが。詩の話題に戻りますが、萩原朔太郎の『氷島』という詩集の中に『珈琲店 醉月』という詩があって、これは詩心のない野暮な僕でも心情がよく分かるような。

坂を登らんとして渇きに耐えず
蹌踉として酔月の扉(どあ)を開けば
狼藉たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電気の影に
貧しき酒瓶の列を立てたり。
ああ この暗愁も久しいかな!
我れまさに年老いて家郷なく
妻子離散して孤独なり
いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。
女等群がりて卓を囲み
我れの酔態を見て憫みしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
残りなく銭(ぜに)を数へて盗み去れり。

この詩を読んだ時は思わず苦笑したものでした、まだ若い頃だったけど。当時、萩原朔太郎が好きだという知り合いがいて、その人に僕はこの詩がいいといったら、彼は不思議そうな表情をしてましたっけ。

朔太郎の有名な詩に『利根川のほとり』というのがあるけれど、これがよく解らない。

きのふまた身を投げんと思ひて
利根川のほとりをさまよひしが
水の流れはやくして
わがなげきせきとむるすべもなければ
おめおめと生きながらへて
今日もまた河原に来り石投げてあそびくらしつ。
きのふけふ
ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ
たれかは殺すとするものぞ
抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。

これ、どう解釈すればいいのかなぁ? 身投げ自殺するのに水の流れがはやいのは好都合だと思うのだけど何故自殺をやめたのか? そもそもこの人、本気で身投げする気などなかったのじゃないかと思ったりもして。自己嫌悪しているのか自己憐憫しているのかも判らないし、もし自己嫌悪しながら自己憐憫もしているとしたら、それは矛盾なのではないかとも思うんですけど、ま、君には詩心がないからわからないだけのことだよといわれればそれまでのことなんですけどね。