Hatibei's music blog

以前は写真ブログでしたが、最近はもっぱら音楽の話題です。

小貝川・夕暮れと鷺の群

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昨日の夕方、小貝川で撮った写真です。

上の写真、左の方に鷺の群が写っています。下の2枚は望遠で撮ったもの。

と、これだけではナンですので。


道元曹洞宗の開祖)の生まれには諸説があるようですが、
昨夜、読んでいた本に道元の母親のことが書かれていました。

木曽義仲都落ちのことであった。都で孤立無援をかこつこの田舎英雄の前に、
突然関東から源頼朝の軍が、攻め寄せたとう報がとどく。義仲は大いに驚いて、
軍兵をつかわしたが、六万余騎と称せられる大軍を前に、何百騎かの軍勢では
防ぎようがない。宇治勢多がやぶれたと聞いて、木曽義仲は、「最後のいとま申さん」
とて、法皇御所に行くが、法皇はいない。ひとり、絶望的なこころをいだいて、
彼は、女のところに会いにゆく。」

木曽義仲都落ちする際、会いにいった女性がいたんですね。で、その女が
後に道元の母親になる人物、この時、16才。

平家物語』から少し引用してみます。

「(義仲は)六条高倉なるところに、はじめて見そめたる女房のおはしければ、
それへうちいり、最後のなごりをしまんとて、とみにいでもやらざりけり。
いままゐりたりける越後中太家光というものあり。
「いかにかうはうちとけてわたらせ給ひ候ぞ。御敵すでに河原までせめ入り候ふに、
犬死にせさせ給はなんず」
と申しけれども、なほ出(い)でもやらざりければ、
「さ候はばまづさきだちまゐらせて、四出(死出)の山でこそ待ちまゐらせ候はめ」
とて、腹かききってぞ死にける。木曽殿「われをすすむる自害にこそ」とて、
やがてうったちにけり」

死ぬか生きるかの時に、女性(道元の母になる人)に会いに行き、
その女性と性の快楽にふける木曽義仲、戸の外では越後中太家光の
「いったい何をしているのか」
と義仲を責める声が聞こえてくる。
それでも義仲はこの女から離れられない・・・。

この部分、妙にリアルです。

また昨夜読んでいた本からの引用です。

「木曽逃亡の日は寿永三年(1184)一月二十日のことであるが、その二ヶ月前、
木曽義仲は、後白河法皇の軍を破り、その結果、政治的クーデターを行った。
関白の近衛基通(もとみち)をしりぞけて、今年十三歳になる松殿師家(もろいえ)を
関白にしたのである。(中略)木曽義仲松殿基房の娘を妾にむかえたのは一種の
略奪結婚であったにちがいない。彼女は絶世の美人であった。そして美人ゆえに、
彼女はこの田舎武者に眼をつけられ、木曽義仲に嫁がされることになった。
義仲の死後、再び(中略)政治的打算のために好色な老人久我通親(源通親)の
もとに嫁がされる。彼女の心には、おそらく世間と人間に対する絶望がかくれて
いたであろう。しかし、彼女はその絶望をかくして、一子、道元を生んだのだ。」

う~ん、何やら道元が女性を近づけなかったのが解るような気が・・・。
彼の禁欲的な宗教観は彼の母親と関係があるのかもしれません。
彼は自分の父親を憎悪していたふしもあるようだし・・・。

人間関係というのは密接になるとあれこれと面倒で鬱陶しい・・・、ですね。