以前、小貝川の土手を降りた時に撮った写真です。
「 深い淵を放棄して、橋を作って海や沼を渡る人々もある。筏を作って渡る人々もある。聡明な人は既に渡り終わった」
「水面に触れずに、橋を架けて、大河や湖を渡る人々がある。人は筏を組んでいるのに、智慧ある人は既に渡り終わった」
(中村元氏訳の「大パリニッバーナ経(大般涅槃経)」より引用)
此岸と彼岸。「彼岸」という言葉は死後の世界といった意味で使われる場合が多いですが、
もし生きているうちに彼岸へと渡れたら、
生きていることによるもろもろの迷いや不安からうまれる苦から解放されるのかな?
今現在を生きている自分(我)から離れて、客観的にものごとを観る。
聡明な眼で物事をみなさい。
仏教の教えとはそううことなのではないかと、
川を見ながらぼんやり思ったものでした。
「科学的」なーんて観念のなかった時代に、
お釈迦様のものの見方は、今風にいえば案外科学的だったのかもしれません。
すくなくとも坊主にお布施と称して脱税しろと説いてはいなかったでしょうね。