Hatibei's music blog

以前は写真ブログでしたが、最近はもっぱら音楽の話題です。

Over the rainbow

 Over the rainbow

 渋谷で知り合いと飲んでから、一時間以上電車に乗って地元の駅にたどり着いてもまだ体にアルコールが残っているようで体がほてっていた。
 酔い覚ましに駅前の道を歩いてみようかという気になった。この街に住んでから随分になるが、駅前の路地裏の方まではゆっくりと歩いたことがなかった。
 人通りの少ない路地裏の道へと自然に足が向いた。道沿いに THE PAST と書かれた木製のドアが見えた。「過去」不思議な店名だ。飲み屋だろうか、そのドアの向こうがのぞいてみたくなって、ドアを押した。
 薄暗く細長い店内にカウンター席だけのこぢんまりした店で客は誰もおらず、カウンター内に三十才は過ぎているだろう女性が手持ちぶさたにしていたが、私を見ると
「いらっしゃい」
 と微笑んだ。
「飲んで来たのでもうアルコールはまにあっているんだけど、コーヒー飲めるかな」
「ええ、どうぞ」
 カウンター席に腰をおろし、カウンターごしに壁の棚を見るとLPレコードがたくさん並べられている。そのレコード棚をはさむように壁には少し古びたJBLのスピーカが掛かり、片隅にはレコードプレヤーとマッキントッシュ真空管のアンプが置かれていた。何十年か前のオーディオマニアの愛用品といった趣で、音楽好きとしては見ているだけでも結構楽しめる。今でも壊れずに使われているということは、相当に大切に使ってきたのだろう。
「どこか懐かしくてよい雰囲気の店だね」
「有難うございます・・・、何かレコード、かけましょか」
「お願いできますか」
「どんな曲がいいかしら」
「おまかせで・・・・」
 女がレコードを選び、ターンテーブルの上へレコードをのせ、レコードにピックアップを置く。ピックアップをつまむ女の細い指先が魅力的だ。
 女の雰囲気が随分前に乳ガンであっけなく逝ってしまった昔私の恋人であった要子にどこか似ている気がした。
 レコードのプチプチいうノイズが聞こえて、やがて音楽がなり始めた。

Somewhere over the rainbow way up high
There's a land that I heard of once in a lullaby

「ジュディガーランドのオヴァー・ザ・レインボー、随分と昔の曲ですね」
「お客さん、ご存知なんですね、この曲」
「有名な曲ですからね・・・、『オズの魔法使い』でしたっけ? 歌詞はどこか切ないけれど・・・」
「歌詞の内容もご存知なの?」
「有名な曲ですからね」
 そう同じ言葉をくり返してから、
「この歌を聴いていると空のどこか向こうの方に天国のような所が本当にあるのかなと思えてきてね」
 女がドリップでコーヒーを淹れはじめるとよい香りが店に漂った。コーヒーを淹れ終わったころ、オヴァー・ザ・レインボーの曲も終わり、女はまたプレヤーに新しいレコードを載せた。音楽が流れ始めるとコルトレーンのバラードというアルバムだとすぐに分かった。
コルトレーンですか、渋いレコードをかけるなぁ」
「お客さん、このレコードもご存知?」
「有名ですからね」
 私がまた有名という言葉をくり返したせいか、女は笑った。
「ここに来るお客さんで、このレコードをかけて何か反応した人っていませんけど・・・」
「そうですか、でもジャズファンだったら誰でも知っているレコードでしょう。ことに一曲目の Say it は切なくてたまらない・・・」
「ジャズがお好きなんですか?」
「特別にジャズが好きという訳ではないけれど、音楽は大好き・・・かな」
「レコードやプレヤーを見る目つきで、そうなんじゃないかと思いました」
「あっ、そんな目つきしてました? この店こそ古いLPレコードが沢山あってオーナーさんは相当に音楽にこだわりのある方なんですか?」
「うちの父がジャズの大ファンで、この店のレコードやステレオは父の形見なんです」
と、女はどこか遠くを見つめるようにしていった。
「そうだったんですか。じゃ、あなたがこの店のオーナーか。お父様、亡くなられたんですか」
「ええ、5年前に。それで父が残したレコードやステレオを無駄にしたくなくて、この店を思い切ってオープンしたんです」
「今の時代、昔のオーディオ装置でLPレコードを聴けるだけでも貴重だと思いますよ」
「有難うございます」
 コーヒーを飲み終わり、店を出ようとすると、
「またいらして下さいね」
と、女がいった。
「また必ずきます。今度はハイボールでも飲もうかな」
 私はそう言い残して店を出た。
 少しタイムスリップして古き良き時代へ立ち寄ったようでよい気分だった。

 数週間たってから、私はまたあの店へ行ってみようと、駅前を歩きまわったのだが、何故か店は見つからなかった。
 先日は酔っていたせいもあり、記憶が相当にあやふやだ。たしか店名は THE PAST(過去)だったが、もしかすると店そのものが過去にあった店で、現在の店ではないのではないかなどとも思ったが、まさかそんなことはあるまい。
 ただ店を探していて、路地裏の空き地に捨てられた古い JBL のスピーカーの残骸が妙に気になった。
 また今度、THE PAST(過去)を探しに行こう。ジュディガーランドのオヴァーザレインボーを聴きに。

 Somewhere over the rainbow way up high
 There's a land that I heard of once in a lullaby

(つづく)
としておきますが、いつ続きを書くか全く分かりません。書かないかもしれません。