Hatibei's music blog

以前は写真ブログでしたが、最近はもっぱら音楽の話題です。

マキ、どう思う?

前に蓮如の「白骨の御文」のことを書きましたが、似たような文を曹洞宗の『修証義』の中にみつけたのでちょっと紹介します。(ちなみに『修証義』は明治23年に道元の『正法眼蔵』がきわめて難解なこともあり、曹洞宗のおえらいさんがその宗旨を分かりやすく書いたものだそうです。でも、こちらもちと難解だったりしますねぇ)
 
「無常憑 (たの) み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん。身已に私に非ず。命は光陰に移されて暫くも停め難し。紅顔いずこへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし。熟 (つらつら)観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し。無常忽ちに到るときは国王大臣親昵(しんじつ) 従僕妻子珍宝たすくる無し。唯独り黄泉に趣くのみなり。己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり」

 
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この世は無常で頼みがたいもの。命だってどこで落とすかわからない。自分の体や命は自分のものだと思っているかもしれないけれど、実はそうじゃない。命は時間に流されて停めることなどできなもので、年若かった頃の艶やかな顔はどこかへいってしまい、あとかたも残っていないし、誰も昔のことには再会できないしね。死ぬ時がくれば国王も大臣も親しい人達も部下も妻子も珍しい宝も何の頼みにならず、たったひとりで黄泉の国へと行かなくちゃならない。その時につき従うのはこの世でおこなった善悪の行為(業)だけ・・・なんだってさ。
これって、蓮如の『白骨の御文』を参考に書かれたのじゃないか、なーんて思ったりもしますが、宗派が違うからそんなことはないのかな? 要するにどちらも無常感を強調している訳か?
 
おい、マキ、どう思う? 
 
そんなこと、しらにゃーい。